「優しい右手」:刹フェルと沙慈 / 2期捏造

 僕にはずっと、刹那にも、この艦の実質的なリーダーである女性にも、秘密にしていたことがあった。

 一度だけ、食料の買い出しにコロニーへ赴いたときの出来事だ。  

  刹那の右手。無骨な男の手だが、それが重力パネルを軽く撫でる。何度かタップすると、エレベーターが作動して、ぐんぐん体が上昇して行く。小型艇を置いた暗いハッチから、人々が行き交うB to Bコロニーに。ここは、一般的な宇宙観光客向けの商業コロニーではなく、宇宙で働くスペースシップ・マン向けの資材を売るのを専門としているところで、ここ以外にもいくつかの国がこういったコロニーを運営しているのを知っていた。 

 時間があまりないから、手分けしようと刹那は言った。俺は食料を買いに行ってくる、と言いながら僕を見て、ああ、じゃあ僕は日用品をやるよと答えた。どちらにしろ、嗜好品や女性の暮らしで必要になる細々としたものは、もうひとりの同行者、グレイスさんの役目になるだろうと思っていたからだ。

  彼女は僕の視線を受けるか受けないかのところで、既にこくりと、あの例の物分かりのよい表情で頷いていた。購入するもののリストや、落ち合う場所のことなどを確かめると、僕らは手分けして市場のように賑やかなコロニーへと散開した。

  コンテナに詰め込みやすくするために、梱包もそのままにパレットの上に山積みにされた商品たち。僕はそれらの中を縫うように歩き、なるたけ効率よく買い物をし、ときどきヘルメットを小脇に抱えたままどかどかと大きな足音で歩く宇宙労働者たちを眺めたりしていた。背の高いその男たちは、浅黒い肌で黒い髪、彫りの深い顔立ちと、ちょうど刹那と似たようなからだの特徴を持っていて、おそらく彼と同じ中東の国の生まれであろうと推測できた。彼らの手は肉体労働者がおおむねそうであるように、大きくて厚みがあって、たくましい。

  同じというわけにはいかないだろう、僕は刹那の手を思い出しながら考えた。彼の手は無骨で、銃の扱いに慣れている。椅子に座ってじっとしていると思って覗いてみれば、僕には見当もつかない部品を組み合わせたり分解したりして、銃の手入れをしていたりする。パイロットスーツの指先はトリガーを引くときに使う箇所だけが、癖になり柔らかくなって、スーツを脱いだ後でも曲がったままになっている。彼の手は人を殺める手である。

  そういえば、彼女は、グレイスさんは、刹那のような男を怖いと思わないのだろうか。子どもの頃からの仲間だそうだが、目の前で阿修羅のごとく人を殺めていく刹那を見て、彼女はなにも思わないのだろうか。

  ここまでの道中、小型艇のオペレーション以外はほとんど言葉を発さなかった、寡黙な彼女のことを思い出しながら、僕はコロニーのメインエリアへと舞い戻ってきた。そこには購入した商品をコンテナに詰め込む手続きをする窓口があり、僕らはそこで落ち合うことになっていたのだ。

  予定よりも早く買い物が済んだので、彼らの分も手続きを済ませてしまおうと列の最後尾に並びかけたそのとき、前方はるか、見慣れたピンク色の髪が動いて見えた。グレイスさんだろうかと、僕は列を外れてそれに近づいてみる。彼女は列の、先頭からあと数組というところに並んでいた。正確には彼女と刹那だ。声をかけようと思い、いやしかし、踏みとどまった。なぜか。並び、寄り添い合う二人の距離が、いつもよりもがくんと近いような気がしたからだ。

 刹那の右手。無骨な男の手が、ためらいもなく彼女の腰を抱くのを、僕はそのとき初めて見た。 

 そりゃ。恋人同士であるかのように振る舞った方が、周囲の目には自然に映るだろう。彼らは言葉を選ばずに言えば「プロ」だ。そういう決まりがあるのかもしれないし、そういう訓練だってしてきたのかもしれない。けれど、彼らのまとうまろやかな空気、恋人同士特有の、ゆったりとした時間の柔らかさを、そのような現実の言葉で片付けることは、そのときの僕にはとてもできなかった。

 刹那に腰を抱かれた彼女には硬くなったところはなく、むしろとても居心地がよさそうに少しだけ頭を刹那の方にもたげて、順番を待っている。とても自然で、僕にはそれが、東京の映画館なんかによくいる仲の良い恋人同士となんら変わらないように見えた。

 そしてそのとき僕は、なにも思わないなんてことは、絶対にない。ただ、そういうことと、彼女が刹那を愛するということとは、まったく別の場所にあるのだということに気が付いたのだ。刹那の右手が、驚くほどの優しさで、彼女の腰を抱いたのと同じように。

 このことは僕が艦を降りるまで誰の耳にも入っていない。僕はこの秘密を、聞かれるまで誰に言うつもりもない。もっとも、刹那の手が奪うだけではないということくらい、今日ではみなの知るところではあるが、それでも。



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