「記憶葬」:2期後捏造/ニル刹要素あり/山奥の村でニールに出会う刹フェル
古ぼけたジープを相棒にハイウェイを抜けると、そこには寂れた小さな町があった。町はしんとしていて、昼間だというのに人の姿はほとんど見られない。50メートルほどのハイストリートを抜ければもうそれきりで、濃い霧と深い森が広がっている。
「そうか、いなくなったのか」
静かに、何の感情も読み取れない声だった。フェルトは彼の背中に控えているので、皺くちゃの顔をした老人と話している刹那の表情を見ることはできない。
「もともと村八分みてえなもんだったからな。みんな気味悪がって近付こうともしなかったし、死体の発見も遅れたのさ」
この店の店主らしい小太りの男が、くすんだグラスを磨きながら口を挟んだ。
「森の中で倒れているのを、ハンターが見つけたんだ。最も、その時にはほとんど腐っていたけどな」
「死体を見たのか?」
「田舎だからなあ。人手もないし、町の男たちで埋めたのさ」
狭い店のあちらこちらから、口々のそのときの様子を話し合う声が聞こえた。フェルトは刹那の顔を伺おうとしたが、なんだかそれも憚られた。
「やめろやめろ、その話は、飯がまずくなる」
「なんでえお前、もともとまずい飯だろうが!」
「そりゃその通りだ!」
「なんだと!」
粗雑な叫び声と豪快な笑い声にフェルトは思わず怖気づく。店の奥から滅多にない若い女の客をからかいもてはやす声が聞こえてくると、刹那は世俗を知らない無垢な少女の手を引いてさっさと店を後にした。
記憶葬
「よかったの?」
人気のない通りを歩きながら、フェルトは迷わず歩を進める刹那に問うた。刹那が一人の人物を探していたこと、その人物が既に亡くなっていること、理由も知らずにこの国に来たフェルトには、それ以上のことを聞きたいという気持ちが少なからずあった。
「もう少し話を聞いてもよかったんじゃないかしら、…その、お墓の場所とか」
「分かっていたことだ」
「なにが?」
「あいつが死ぬこと」
その言葉にフェルトは眉をひそめた。
「分かっていた?」
刹那は町のはずれに止めていたジープに乗り込むと、フェルトに手を貸した。意味も分からず、フェルトは戸惑うしかない。 「ここであいつに会ったとき、そう言っていた」 そう言って刹那はエンジンをかけて、ジープはそれに従順に走り出した。
この山林の町の風は清清しいが、空気は張り詰めて冷たい白ワインのようにきりりとしていて、山からの霧が混ざり合ってそれを余計に混沌とさせていた。それほど多く体で自然を感じたことのないフェルトでも、この町の空気が他と違っていることははっきりと感じられた。…なにかスピリチュアルな、濃霧の中から誰か人間ではないものの言葉の囁きが聞こえてきそうな、そんな雰囲気すらあった。
(好きになれないわ)
この町に来てからずっと感じていた違和感が、フェルトにそういう印象を抱かせた。声を発せば一拍子遅れてそれが発音され、腕を動かすたびに手のひらが何かを掴むような感触がある。気のせいといえば気のせいかもしれない。だが、自分の力ではどうしようもならない超自然的なそれが、フェルトを妙に苛立たせた。
おそらくこの町は、刹那が4年間の放浪生活の際に訪れた町の一つに違いない。ここで知り合ったその人物に会うために再訪したとすればつじつまが合うし、フェルトも納得がいく。最も、その人物は既にこの世にはいないようだが。
ジープは二人を乗せて、村の奥に広がる深い森へと走っていった。手頃なところに車を停めると刹那はフェルトに冷えるからコートを着るように言って、二人森へと足を踏み入れた。
まだ昼間だというのに森の中は薄暗く、気味が悪かった。町全体に漂っていたあの奇妙な空気は、どうやら森からやってきているようだった。呼吸をするたびに意思を持った重い空気が肺の中で何かを囁くような、そんな気色の悪い感覚すら覚えてフェルトは思わず刹那の手のひらを握る。恐ろしかったが、時折差し込む木漏れ日が、深い緑と細かな光を作り出して美しくも思えた。
「…ここだ」
しばらく歩くと、刹那は一軒の廃屋の前で立ち止まった。森の中にひっそりと佇むそれは、家というにはほとんど原形を留めておらず、辛うじて土台と壁が残っているだけで、落雷を受けたのか屋根は崩れ落ち植物が生い茂っていた。
「ここは?」
「あいつが、住んでいた場所だ」
刹那はそう言って、迷わずドアがあったと思われる場所から家の中へと進んでいった。家具と言えるものはほとんど残っておらず、残されたものもみんな使い物にならない代物であったし、石畳の床にはところどころから雑草たちが生を得ていた。すっかり風化し足の折れたテーブルを撫で、刹那は小さく、まるで自分に言い聞かせるように呟いていた。
「…本当にあったんだ…本当に…」
そのとき重い雲から差し込んだ細く白い日差しが、刹那の背中に柔らかく触れるのをフェルトははっきりと見た。それは遠い記憶に眠る誰かの手のひらを思い出させた。
*
粗雑な男たちとフェルトが顔を合わせるのを嫌って、刹那は先ほどのあの店で今夜の宿を取るのをなかなか渋った。だがこの町にはあの店以外に旅人を泊めるような商売をしているところはなかったし、仕方がないからとフェルトは宥めた。しかしあそこで食事をするのは憚られたので、2人は人の良さそうな中年の女が経営している別の食堂で夕食をとった。
女は多くの田舎の食堂の女主人がそうであるようによく喋り、2人がどこから来たのか、どうしてここにやって来たのかを知りたがった。2人は当たり障りのないことだけを話し、なるべく普通のカレッジの恋人同士のように振舞った。
「学生生活最後の思い出作りに来たんです。彼が以前ここに来たことがあって、良かったと言っていたから」
「そう、それは良かった。最近は狩猟に来るハンターの数もめっきり減って、すっかり寂れちゃったの。あなた達みたいな若い人が来てくれると嬉しいわ」
女主人はそう言って微笑んだが、こういうとき、フェルトは必ず後ろめたい気持ちに駆られるのだ。
「あんたたち、さっきダドリーの店に来てた連中じゃねえか」
「あら、いらっしゃい。まだ学生さんですってよ」
「ふうん…」
来客の男は刹那の顔を訝しそうに眺めながら席に着いた。
「さっきあのきちがいについてあれこれ聞いていたな」
「え?」
「森の中に住んでたあいつだよ」
「ああ…」
女主人の明るい顔に不審の色が灯り、刹那の表情はほんの僅かに険しくなった。
「あの人なら亡くなったわ。4、5年前だったかしらねえ」
急に余所余所しくなったその声に、フェルトは膝の上で拳を握りしめる。
「森の中の使われなくなった木こり小屋にある日突然住み始めたの。たまにふらっと町に現れるんだけど、一言も喋らないで、いつもにこにこ笑っているのよ。肌も青ざめていて気味が悪い男でね。精神病院から逃げ出してきたきちがいだって言われてたわ」
そのイメージと先ほどの廃屋の情景を合わせて、フェルトは少し気味の悪い心地になった。刹那が探していたのがその男だとしたら、なんて奇妙な組み合わせであろう。
「…あの人がどうしたの?」
女主人の何となしの詮索にも、刹那は余所行きの表情を崩さずに言った。
「いえ、以前来たときにその方に会ったんです。印象に残ったので、今どうしているか知りたくて」
*
夜は、まるで大きな黒い手が町を包むように山から伸びてきた。食堂を出ると霧はずいぶん濃くなり、二人は女主人が親切に貸してくれたランプを頼りに宿までの道を急いだ。
「…ねえ、刹那。わたし、少し怖い」
フェルトは刹那の腕にしがみ付いていながらも、夜の濃霧が自分の体に服を通り抜けて纏わり付いてくるのを感じた。この町の雰囲気も、先ほどの狂人の話も、正直今すぐにこの町を出ようと刹那に直談判したいくらいであった。
「その、さっきの人、いったい誰だったの?わたしに、会わせたかったの?」
フェルトが泣き出しそうな声を出すと、刹那は彼女の肩を優しく抱いてさすってやった。
「…そうなんだと思う。俺も、会えるものならもう一度会いたかった。そのときはフェルトも連れて行きたかったんだ。でも、やはり駄目だった」
「誰なの?」
恐怖に引きつるフェルトの頬にそっと手を添えて、刹那は囁いた。
「ニール・ディランディ」
***
そのとき、確かまだ自分は17か18の時で、失った仲間たちや、世界のことをただひたすらに憂いていた頃だった。この町を訪れたのは偶然で、そして何事もなく通り過ぎていく予定だった。しかし突然エンジンの故障で町の外れに立ち往生してしまい、途方にくれていた、その時であった。
霧が突然濃くなった。それは生半可なものではなく、一寸先も見えなくなるような、体に纏わり付く濃く深い霧だった。そして、同時に誰かが自分に向かって近付いてくるのを感じた。本能的に危険を感じ懐の拳銃に触れたが、だんだんと明らかになるその影に、その輪郭に、その姿に、自らの目を疑ったのだ。
そこに立っていたのはまぎれもなくロックオン・ストラトスであった。
何かを叫んだのを覚えている。しかしそれから意識は遠のいて、気が付けばどこかの部屋に横たわっていた。ああ、夢だったのだとあたりを見渡せば、ロックオンが、変わらぬ姿で、変わらぬ笑顔で、傍らに立っているではないか!
***
「…ほんとうなの?」
フェルトは震える声を抑え切れなかった。唇は戦慄き、寒気さえした。だが、涙だけはその大きな瞳から今にも溢れ出しそうであった。
「ああ、会ったんだ。あいつに、この町で、あの小さな家で」
***
一瞬、ああ、自分は死んだのだと感じた。そうでなければロックオンに会えるわけがない。自分はこの目で、彼が息絶えるところを見ているのだから、彼が生きているわけがない。会えるとするなら、ここは地獄か、あるいは夢だ。
だがすぐに我に返った。そして男に拳銃を向けた。
『お前は誰だ』
自分ははっきりとそう発音した。迷いはなかった。彼が生きているはずがないということは、自分が一番良く分かっていた。
<それ>は動じた様子を見せなかった。確かにロックオンの姿をしていたものの頬は青いほど白く、笑顔も儚くどこか悲しそうで、何より生きている人間の匂いがまったく感ぜられなかった。
銃を一発撃ち込もうかとも考えたが、<それ>が微かに唇を動かした瞬間に自分は即座に理解した。<それ>は唇をこう動かした。『刹那』と。声に出してはいないものの、<それ>が発した空気の振動は血管を駆け巡り、骨に響いて自分の名を呼んだ。これが命亡き者の話す言葉なのだと理解した。
全身の細胞が『これはロックオン・ストラトスだ』と叫んでいる。もう迷うことはなかった。銃を捨てて、自分は震える足で彼に近寄った。
『ロックオン』
刹那の縋る手をそっと握り、<それ>は、ロックオンはその変わることのない優しさを秘めた蒼い瞳を細めた。手は恐ろしく冷たかったが、そんなことは今は気にならなかった。
『本当に?』
ロックオンはゆっくりと頷いて、やはりただ、その青ざめた顔で微笑むだけだった。
不思議なことに、何故かはっきりと分かっていた。死者は生きている者と言葉を交わすことは出来ないのだ。彼の背中にそっと腕を回した。この冷たさには身に覚えがあった。何度もこの手で触れて来た、あの絶望的な温度。奈落の底の空気は、きっとこれくらい濃厚な冷たさに包まれているに違いない。彼は死んだのだ。そして今も死んでいて、その事実だけは変わることなく横たわっている。 それからのことは、正直よく覚えていない。ただ自分は森の小さな家の中で、彼の隣に座っていた。
彼は生きているときの彼とはまるで別人のように大人しく、部屋の虫食いだらけのソファからほとんど立ち上がることはなかった。死者なのだから衣食住を気にすることがないのは当然だが、今思えばそれは彼にしてはとても不自然だった。この日差しのほとんど入らない暗い森の家の中で、一人は息をして、もう一人は息を吐くことすらなく寄り添い合っていた。
何日そうしていたのかは知れない。だがしばらく経って、自分は自然と言葉が口から零れ落ちていくのを感じた。今までのこと。ロックオンを失ったときのこと。出会ったときのこと。隣に確かにロックオンの存在を感じながら、ぽつりぽつりと語り始めた。彼はやはり黙って、微笑んでいるだけだったのに、それで十分だった。
***
「今思い出しても、不思議な気分だった。ここはひょっとしたら、死んだ後の世界ではないかと思った。あんなにも静かで、あんなにも穏やかな気持ちになったのは、生まれて初めてだったから」
刹那の言葉に嘘はなかった。最も、刹那が嘘など吐くわけがない。しかもこんな吐いたところでどうしようもない嘘など。フェルトは混乱しそうな頭を何度も深呼吸することで落ち着かせようとした。彼女は幽霊の存在などこれっぽっちも信じていなかったし、スピリチュアルな占いにも全く興味がなかった。しかし刹那の話す言葉には、心臓を鷲づかみにされたように訴えかける何かがあった。
「話しているうちに、自然と心が楽になっていく気がした。もう全て失ったと思っていた。なのに、こんな自分でもまだ出来ることがあるのではないかと思えるようになったんだ」
大切な人に思いの丈を全て語ることで、刹那の心に巣食っていたどうしようもない感情は明らかに良い方向に働いたのだった。刹那は強い。誰もがそう思っている。しかし、空白の4年の間にも、彼は悩み苦しんでいた。当たり前だ。そんな当たり前のことを、知らず知らずのうちにいつもみんなが忘れていた。
***
別れが訪れることは、最初から分かりきっていた。肉体を超え深いところまで繋がりあっていた魂の結び目が、ほろりほろりと解けていくのが、眼を閉じていてもはっきりと感じられたのだ。
『行くのか』
そう問えば、傍らの愛おしい存在は肯いたように思えた。そこにいるのはロックオンというよりかは、魂に肉を付けた白い塊のようで、もう時が迫っていることは明白であった。
『…違う。俺が行かなければいけないんだな」
その言葉にも彼は肯いた。今度は先ほどよりも力強いように思えた。
手と手がそっと、触れ合った。握り合うこともしないのは、この永久の別れを悲しんでいるからではなかった。
ありがとう、と眼を閉じたまま呟いた。愛していた、と呟いた。それ以上のことは、もう何も言わなかった。
自分の右肩から、気配が消えたのを感じた。ロックオンは音もなく立ち上がり、そっとその冷たい手で最後に刹那の頭を撫でた。こんなにも満たされていたことが、今まであっただろうか!
手はやはり音もなく離れていき、彼の気配もそのままドアのほうへ向かい、ドアは軋む音を立てて開き、そして閉まった。柔らかな空気に包まれていた部屋はかび臭くてじめっとした、本来の空気を取り戻した。
どれくらいそうしていただろうか。ずいぶんと長い間眼を閉じていた気がする。ゆっくりと眼を開けてそのまま立ち上がり、まっすぐに家を出て車へと戻った。もう迷いもせず、振り向きもせず、これから続く旅の孤独など、微塵も恐れてはいなかった。
***
「待っていたんだわ」
フェルトは嗚咽をこらえながら、小さな声で呟いた。
「ずっとずっと、待っていたのよ」
死んでもなお、刹那のことを思い続けていた。孤独の淵に立っていた刹那を、昔と同じようにロックオンは再び救ったのだ。死者にしかできない、そして彼にしか出来ない彼だけのやり方で。
*
宿に戻ると二人はフェルトの只ならぬ様子に目を丸くした店主を無視して、真っ直ぐに部屋に入った。刹那はフェルトの霧に濡れた髪をタオルで丁寧に拭いてやり、二人はそのまま何も言わずに抱き合った。冷え切った体を暖め合って、生きているという事実をはっきりと感じたかったのだ。
「心配だったのね、きっと」
刹那の腕に抱かれながら、フェルトは囁いた。
「…ああ、多分な」
「やっと分かった。刹那がどうしてもわたしをここに連れてきたかった理由」
「結局、あいつには会えなかった。考えてみれば、会えないのが当たり前だ」
刹那はどことなく寂しそうにそう言うと、フェルトの首筋に顔を埋めた。
恐ろしかったこの町の濃く深い霧が、今は優しく自分たちを包んでいるようにフェルトは感じた。きっと気のせいではないだろう。彼は、自分たちのこんな姿を見て驚いているだろうか。刹那を愛していたのなら、ひょっとしたら複雑な心境であるかもしれない。どちらにしろ、フェルトはニールのあの大きな手のひらと優しい笑顔が、なんだか自分たちを見守ってくれているようなそんな心地がした。
「ニールが、見ているような気がするの」
「え?」
「なんとなく」
フェルトがそう答えると、刹那はそれは嫌だなと少し微笑んだ。
「ニールはここにいたんだよね?この町の人からは怖がられていたみたいだけど、確かに肉体を持って」
フェルトは肉体が腐っていた、という話を思い出した。
「…そう信じたい。ひょっとしたら、あれは俺の創り出した幻かもしれない。もともと何の根拠もない話だし、信じるほうが馬鹿馬鹿しい。ただの夢だったかもしれない」
刹那の言葉は、普段科学技術に囲まれて生きている自分たちにとっては正論であった。だがフェルトは、その気持ちをぐっと飲み込んで、刹那にキスをしながら囁いた。
「本当でもそうでなくとも、ニールが刹那のことを助けてくれたのには変わりないと思う」
刹那はその言葉に、何度も小さく頷いた。
*
空が白み始めた頃にジープに荷物を詰め込んだ。あの粗悪な宿には料金より少し上乗せした分の金を置いておき、店主が起きてくる前に二人はそこを抜け出した。
二人とも昨夜の幸せな雰囲気など嘘のように黙りこくっていた。心に残っているのは曖昧な虚無感で、正直なところ、二人はもうこの町で起こった世にも不思議な体験を忘れようと努力していた。二人の大好きだった男が、死んだ後も確かにここに存在していたという事実は二人にとっては魅惑的過ぎたのだ。一刻も早く忘れなければ、心も体もこの町に、あの森の霧に囚われてしまう。そんなことになっては、二人の生きる理由さえ揺らいでしまう。
ジープはゆっくりと山の麓にあるハイウェイに向かって走り出した。フェルトは行きと同じようにフードでしっかりと顔を隠して、朝の冷たすぎる霧から逃れようとしていた。もう二人は何も話さなかった。
曲がりくねった山道は狭く、刹那は慎重にジープを走り進めていた。フェルトは彼のそんな横顔を眺めながら、やはりこの町で刹那がもう一度だけでもニールに会えれば良かったのにと、少し寂しい気持ちになった。刹那は間違いなく、この町でもう一度彼との再会を望んでいたに違いないのに。
フェルトはもうそれも叶わないのだと、瞳を憂いに滲ませながら何となしに山の景色を眺めようとした。そしてふとサイドミラーを覗いて、その中に見つけたそれに、思わず息を呑んで口を両手で覆った。
そこにはニールが立っていた。たった一瞬、まさに刹那のことだったが、フェルトにははっきりと分かった。眼帯をして、同じ服を着て、そしてフェルトに手を振りながら、太陽のように笑っていた。
フェルトはジープから身を乗り出して、後ろを見た。霧の中に一瞬、ニールの栗色の髪を見た気がした。
「どうした?」
刹那はジープを停めて、彼女を気遣った。だがフェルトは車から降り、さきほど故人を確かに認めた方へと迷いなく走り出した。
「フェルト!」
彼女の突然の行動に、刹那は慌てて後を追う。
フェルトは走った。霧で顔が濡れることなど恐れずに、ただ走っていた。ニール、ニール、ニール!
しかしフェルトの腕は強い力によって刹那に引っ張られ、そのまま彼に抱き寄せられた。足元を見れば、あと少しのところに暗く深い崖が迫っていた。その無慈悲なほどに静まり返った奈落をみた瞬間、訳もなく少女の瞳からは涙が溢れた。
「あ…ああ…う、うう…」
抑えられない感情が止め処なく流れ出て、フェルトは刹那の腕の中で泣いた。刹那はそのか細い体を抱き頭を撫でながら、見たのか、と問うた。フェルトは何度も力強く頷いた。
「笑ってた、笑って、手を振ってたの」
もう会えないのだ。そうフェルトは確信していた。彼はもう死んでいるのだ、本当は二度ともう会うことはできないのだ。けれど刹那の前に現れた。そしてフェルトにも、最後の別れを告げにきた。 二人は霧の広がる山々を見つめ、ここにもうニールがいないことをはっきりと感じていた。もう彼は天国にも地獄にも、どこにもいない。記憶の中だけに生きているのだ。熱い何かが灯った心臓に思いを馳せればそれが分かった。
「大好きよ、ニール。ずっとずっと」
フェルトは自分に言い聞かせるように呟いた。もう霧は意思を捨てて、ただの水蒸気の小さな水粒となっていた。
もう彼を思って泣くことはないだろう。ジープへとゆっくりと帰りながら、二人は確かにそう思っていた。 あの優しい笑顔を、記憶の深く一等柔らかい心地の良い場所へと永遠に閉まったのだから。
古ぼけたジープは再び走り出した。霧を裂き、ハイウェイに向かって、今度は迷いなく走り続けた。
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