「ローライコード」: / 本編沿い / 池田特派員→刹那

 その音は、ともすれば銃声のように彼に聞こえたのかもしれない。

「…悪いが」

 地の底から響くようなその声に、全身が総毛立つような感覚を覚えなかったといえば嘘になる。

「すぐにメモリーを削除してくれ」

 その黒髪の、明らかに中東系の顔立ちをした若者は、俺の構える一眼レフに向かってそう言った。

「…そうだよなあ。そうなるよなあ」

 俺はファインダーを覗き込んでいた瞳を彼に向けて、ぽりぽりと頭をかく。

「悪かったよ、ソレスタルビーイング」

「……」

 その青年は青ざめた顔に荒い呼吸で、けれど眼光は鋭く、俺を睨みつけていた。右腕の傷は深そうだ。出来るだけの処置はしたが、回復には時間がかかる類の傷だ。それなのに、この若者はマリナ皇女の制止むなしく、まもなくこの基地を出発するという。

 だからこそ。マリナ皇女が彼に渡す補給レーションの類を取りに外していて、格納庫の資材コンテナの上にひとり座り込む彼を見た瞬間、俺の頭は『今しかない』という一つの衝動に支配された。懐かしい相棒を持ち出し、ピントを合わせ、シャッターを切った。切った瞬間、たとえそれが世に出ることがないと分かってはいても、体の底から沸々と湧き上がる興奮を、抑えることはできなかった。

 ……………。

 …だって、ソレスタルビーイングだぞ?!

 彼らが武力介入を行った一年間、その名がネットやニュース番組の話題に上らなかったことはない。その仰々しいネーミング・センスといい、戦争根絶という壮大な目的といい、謎に包まれた私設武装組織という神秘性といい、その全てが、どれだけのジャーナリストの夢と野心を鷲掴みにしたことか。

 それは、当時特派員として世界中を這いずり回っていた俺も同じことで。

「…あのさ」

 撮影した青年の写真データを削除しようとしていた指は、なかなか動かない。

「絶対に削除するって約束する。だからもう一枚だけ、君の姿を撮らせてくれないか」

「…何故だ」

「俺はジャーナリストだった。五年前、君たちが武力介入を行った頃には、君たちのケツばかり追いかけてたもんさ」

「気色の悪いやつだな」

 青年は皮肉っぽく言った。意外と冗談の通じるタイプらしい。

「頼む。必ず削除すると約束する」

「…好きにしろ」

 俺は分かりやすくガッツポーズをして、彼にレンズを向けた。初めは引きで数枚。今度はもう少し寄って数枚。ウェーブのかかった前髪のせいで顔をよく見ていなかったが、涼やかな瞳に整った鼻筋、この年若いパイロットは、なかなかに撮影に耐えられる顔つきをしていた。傷付き憂いを帯びた表情なんて、なかなかに訴えかけてくるものがある。見出しはこうだ。『ソレスタルビーイングのパイロット、その知られざる素顔ー』…

「一枚ではなかったのか」

 夢のような妄想に終止符を打ったのは、その小綺麗な顔がこちらに向けられた時だった。

「…あ、すまない」

 青年は呆れたような視線を俺に向けている。

「あんまり君がいい絵なもので」

「どういう意味だ」

「そういう意味だよ」

 俺が思わずそう答えると、青年は呆れた顔を怪訝そうな顔に切り替えた。しまった。その微妙な表情の中に用心深さのようなものを感じ取って、俺は慌てて弁明する。

「ち、違うさ。妙な意味じゃない。俺はヘテロ・セクシャルだし。ただ、興味の対象であるということさ。今、目の前にソレスタルビーイングのパイロットがいる。世界中の人間が、その正体について大なり小なりの空想を散らかしてる組織の、張本人が。俺だってそうだ。関心を抱くのは当たり前だろう」

 俺の上ずった声にも、青年はあまり興味がなさそうに視線をずらしただけだった。その顔が。なんだかそういう劣情を向けられることに慣れているかのような顔つきで、俺はますますこの謎めいたパイロットに興味をそそられる。まだ随分若いが、こんな明日をも知れぬ危なっかしい組織に属しているくらいだ。それはもう俺には想像もできないような過酷な人生を歩んできたのだということくらいは、容易に想像がつく。

「…君は、五年前からあの青と白のカラーリングの機体に乗っていたのか」

 彼は石のような沈黙で答えた。いいね、その顔。思わず再びカメラを向けたくなる気持ちを、ぐっとこらえる。

「じゃあ君が、五年前のアザディスタンの内紛を止めた、あの時のパイロットか」

「…そうだ」

 俺に向けたその顔は、肌もきめ細かく、皺一つ刻まれていない。どう見ても二十歳もそこそこに見える若者だ。一体、あの王宮に降り立った時はいくつだったのだろうか。

「やっぱり!…俺もあの時、あの王宮にいた。取材でね。君をこの目で見ていたよ」

 その時初めて、彼の関心が僅かに俺に向けられたような気がした。俺の顔をじっと見つめると、また小さく「そうか」と言っただけだったが。だがそれでも何故か妙に気分は上ずって、俺は陽気な声で続ける。

「感動したよ、あの時は。ソレスタル・ビーイングには本当に紛争を止める力がある、俺は時代の目撃者になったんだって思った。それを記録し世界中に伝えることができて、あんなにジャーナリスト冥利につきることは他に…」

 熱っぽく語る俺の言葉は、彼が無言で差し出した左手に遮られた。にこりともしないで。彼は俺を見上げて、ただ左手を差し出している。それが「カメラを寄こせ」という意味だと分かるのに、数秒かかった。

「ああ、悪い」

 俺は若干呆気に取られつつも、大人しく首に下げていたカメラを彼に手渡した。彼はそれを受け取ると、痛みに顔を歪ませながら難儀そうにそれに手をかける。メモリーを消すくらいなら俺が、そう口を開こうとしたのだが、彼が取り出したのは本体に内蔵されたメモリーチップだった。直径一センチにも満たないそれが、ころりと彼の手のひらの上に転がると、そこから先は目にも留まらぬ早業だった。

 彼がチップを床に放り投げ…投げたかと思えば耳をつんざく、一発の銃声。いつその拳銃を懐から取り出したのか、俺にはまるで見当もつかなかった。格納庫の床は僅かに焦げ跡が残るだけで、メモリーチップの欠片さえ見当たらない。どうやら利き腕とは逆の手で、しかも至近距離とはいえ宙に浮かぶ一センチのチップを、彼は難なく撃ち抜いたのだ。

 また反応するのに数秒かかった。大事なメモリーチップを破壊された悲しみと怒りと衝撃で、俺はおろおろとするしかない。そりゃ、かなり腕の立つパイロットであることは知っている。だが、こんな人間離れした技を目の前にして、動揺するなというのは無理な話だ。

「き、君ね、」

 俺の非難じみた声を無視して、彼はゆっくりと立ち上がる。メモリーチップの抜かれたカメラを俺に投げてよこすと、すれ違いざまに口を開いた。

「…俺は、どんな記録にも残るつもりはない」

 すぐ手の届くところに、意思の強そうな、若者の精悍な顔つきがある。

「それがソレスタルビーイングの、ガンダム・マイスターだ」

 彼は痛みで顔を歪ませながらもはっきりとした口調でそう言うと、格納庫の入口付近に鎮座するあの青と白のガンダムに向かって、ゆっくりと歩みを進めていく。レーションを用意して戻って来たらしいマリナ皇女が、慌ててそれに続く。残された俺はというと、呆然とそれを見送っている。

 なんだよ、今のかっこいい決め台詞は。

 俺はもはや一枚の撮影も叶わないカメラを抱えながら、ひとりごちた。

 もう百枚くらい撮らせてくれよと。

純情ヒエラルキー

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