「朝食はキャラメル・ラテと共に」:「カプチーノ・ラブ」の続き / フェルトが飼っている猫視点


(ホント、どういうことなのよ) 

  私がそんな視線で見上げると、フェルトは両手を顔の前で合わせて、

「ごめん、本当にごめんなさい、ミア」と何度も謝った。 

(謝ってすむ問題じゃないのよ)

  にゃおんと不機嫌そうにひと鳴きすると、フェルトは悲しそうに眉尻を下げた。それを見て私は少し反省する。別にフェルトを困らせたい訳ではないのだ。スツールを頼りにひらりと大理石のキッチン・テーブルの上に飛び乗ると、私は彼女の腕にすりすりと顔を寄せる。それを見てフェルトはホッとしたように微笑んだ。 

「ありがとう、ミア。優しいんだね」 

(仕方ないわね) 

 フェルトはそう言っていつものように私の耳の裏から首の辺りを撫でてくれる。その気持ちよさにうっとりと喉を鳴らしながらも、私は朝食の催促を忘れない。

 「そうだ、ご飯だったよね」 

(そうよ。忘れられちゃ困るわ)

 「ごめんごめん」 

 彼女がテーブルの上の大きなガラス瓶を開けて、ようやく朝食だ。いつもより一時間ほど遅い。お腹はもうぺこぺこで、私はほとんど飲み込むように食事にがっついた。

 「フェルト」

  その時。聞き慣れぬ男の声が耳に届いて、私はピンと耳を伸ばして頭を上げた。肩肘をついて私が食事をしているのを眺めていたフェルトが、嬉しそうにキッチンの入り口へと目を向ける。 

(あの男!)

  うにゃあ、と私は不機嫌に身を固めて、目一杯の力で男を睨み付けた。フェルトは私が興奮していると思ったのか、左手で尻尾の付け根を撫でてあやそうとしてくる。が、瞳は完全に男の方に釘付けで、本当は私のことなんて気にしてもいない。 

「刹那」 

 フェルトが男のことをそう呼んだ。セツナ。それがこの見慣れぬ男の名前らしい。

 「シャワーを借りた。ありがとう」 

「ううん。コーヒーは?」 

「いただこう」

 「道具はあるから、店にあるメニューだったら作れるよ。好きなものを言って」 

 男は彼女の横のスツールに腰掛けて、ごく自然な仕草で立っている彼女の腰に手を回した。フェルトの白い二の腕に唇を寄せて、その柔らかさを味わうように瞳を閉じる。

 「…キャラメル・ラテ」

  男が口にしたその答えに、フェルトは驚いたようだった。彼の背中を撫でながら問う。 

「カプチーノじゃなくていいの?」 

「…今朝はそういう気分なんだ」

  微睡んだような、どこか甘えたような声が言う。 

「わかった。ちょっと待っててね」 

 そう言ってキッチンに向かおうとする彼女の手を、男は掴む。一瞬不思議そうな顔をしたフェルトは、男の無言の要求をすぐに理解したのか、優しく微笑んだ。彼の膝の上に腰を下ろし、いつも私にだけに向けられていたはずの笑顔を、この男に向けて。 

 私の目と鼻の先で、二人は幸福感たっぷりの甘いキスを。 

(ちょっとあんた、いい加減にしてよ。フェルトは私の飼い主なのよ)

  私が苛立った仕草で前足で男の肩を小突けば、二人はキスをやめて私の方に顔を向けると、息もぴったりに互いの顔を見合わせた。フェルトがコーヒーを淹れるために立ち上がった後も、男は瞳を丸くしてなんだか不思議そうに私を見下ろしている。

 (なによその顔。新入りのくせに、) 

 私はにゃあんと男に鳴いてみせた。 

(生意気よ)


 *


  昨夜遅く。 

 フェルトが見知らぬこの男を連れて帰ってきた。こんなことは初めてだったから、私は恐ろしくてソファの下に滑り込んで、その晩はそこから出ることもできなかった。 

 でもフェルト。帰ってきても私のことなんて知らんぷり。しかも手早くシャワーを浴びたら、そのままその男と寝室まで一直線。結局、翌朝の遅い時間まで出てこなかった。もしかしたら、珍しく飲めないお酒を飲んで、ちょっぴり陽気になっていたのかもしれない。具合が悪かったのか疲れていたのか、朝もいつもの時間に起きれなかったのかもしれない。でもそんなこと、私の知ったことではない。 

 遅くなるからねとは、確かにその日の朝に言っていた言葉だ。でも、いつもの『遅くなる』よりも、昨夜は『もっと遅くなる』の部類に入るだったものだから、その時点で私は怒っていた。『もっと』の日はあらかじめ言って欲しい。その分ご機嫌をとってたくさん構って欲しいし、おやつの量だって足りないと思う。 

 私たち、いつだってそうしてきたはずでしょう?


  フェルトは良い飼い主だ。常に私のペースを崩さないように細心の注意を払ってくれるし、猫を飼う上でのセンスみたいなものもわきまえている。だからこそ私は、彼女に引き取られてからというもの、出来うる限り彼女の良き相棒でいようと努めてきたのだ。彼女が寂しそうにしている時は膝の上に乗って喉を鳴らしたし、彼女が嬉しそうにしている時は、彼女の足首に絡みついて一緒に喜んだ。フェルトはその度にいつも私に優しく微笑みかけてこう言ったものだ。

「ミアは本当に優しいね」

「そばにいてくれてありがとう」と。 

 しかし均衡は崩された。 

 このセツナという男が、毎週のように私たちの部屋に現れるようになってから。



 「………」

(なによ、何見てるのよ) 

 私は尻尾をピンと立てて、今朝も無表情で私を見下ろすセツナを威嚇した。精一杯怖い顔をしているつもりだけど、この男に効いた試しはほとんどない。私の顔を感情の読めない瞳でじっと見つめているだけだ。私を撫でるために手を出してくれれば、簡単に爪の餌食にできるのに、そうしてこないところがこの男の聡いところだと思う。

 そして、フェルトが来るか飽きるか他のことに興味が移るかすると、ふっと視線をそらして何も言わずに立ち去っていく。保護施設にいた時分、猫にもこういういけ好かない猫種がいることを知っていたから、私はますます腹が立った。こんな男が金曜の夜となると必ず部屋に来て、週末までフェルトを独り占めしてしまうのだから余計だ。

  しかも、来たら来たでいつも私とフェルトが寝ているベッドに堂々と体を横たえて、フェルトもその隣にぴったりと寄り添っている。私を抱いて寝てくれるはずの彼女の腕は、彼の背に回っていて離れない。私はというと、リビングのソファの上でぴりぴりとした空気を発しながら一人の夜を過ごすしかないのだ。 

 それはこの週末も同じことで、私は昨夜も幾度かの攻防戦を繰り広げた後、惨敗を喫してひとりリビングのソファの上で眠った。どうやっても、フェルトの腕は彼の背にしっかりと回されていて、眠る二人の間に割って入ることはできなかった。寂しい独り寝の文句を言うように、また私は目の前のセツナを見上げる。 

(あんたのせいなんだからね)

  フェルトがシャワーを浴びていて不在なのを良いことに、私はずいぶん嫌味ったらしく鳴いて彼を非難した。 

(あんたが来ると、フェルトは全然私に構ってくれなくなって) 

 セツナが無表情で私を見つめている。

 (フェルトを独り占めして、許さないんだから)

  なーおなーおと散々鳴いて喚いたつもりだったが、やはりセツナには全く効果がないようだ。セツナは黙って私の非難の声を聞き終えると、踵を返してソファの上に置いていた彼の鞄をごそごそやり始めた。キッチン・テーブルの上に座る私の元に戻ってきたその手には。

 (…それは…!)

  テレビCMで見かけて、以前から食べたいと思っていた棒状のおやつが、彼の手に握られていた。フェルトも「今度買ってみようかな」と言っていた、ペースト状の魚介類が袋詰めされた商品だ。私は嬉しさのあまり一瞬テーブルの上で飛び上がったが、すぐに我に返って平静を装う。

 ふーん? あ、そんなおやつあったよね。いま流行ってるやつだよね。別に欲しくないけど、食べてあげなくはないよ。ほんとに、ほんとに…全然、欲しくなんてないけど…。 

 セツナが封を切った瞬間もうダメだった。食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐり、瞳はセツナの手に握られたものに釘付けになる。彼はもったいぶることなく、そのまま気前よくおやつを私の鼻先に向けてみせた。…もうたまらない!口の中に広がるのは芳醇なまぐろの味で、舐めるたびに飽きることない旨味が舌の上を転がった。夢中になってセツナの手の中のおやつを舐めていると、微かに笑ったような声が頭上から聞こえた気がしたが、そんなことを気にする余裕などない。思わずセツナの手を前足でがっしりと挟んで固定してしまうくらい、そのおやつはたまらない美味しさだった。

  幸せな時間はあっという間に過ぎ、袋の中のペーストが底を突くと、私はようやく我に返った。恥ずかしさと情けなさが同時にこみ上げたが、それよりも先に本能の方が勝り、とりあえず幸福な食後を更に充足したものにするために、恒例の毛づくろいタイムに没入した。

 「今のはお詫びだ」 

 セツナが初めて、私に言葉をかけた。私は毛づくろいの舌を止めて、彼を見上げる。セツナは相変わらず無表情だったが、すでに空になった袋状のおやつを左手に持って立ち尽くす姿は、なんだかちょっぴり、面白おかしく私の目に映る。 

「いつもフェルトの隣に寝ているのはお前なのに、寝床を奪ってしまった」

 (…知ってたのね)

  私が昨夜も、あなたとフェルトの間に割って入ろうとしていたこと。

 「…お前も、フェルトのことが大好きなんだろう」

 (そうよ。フェルトは私の飼い主だもの)

  私はにゃーおと声を上げて返事をする。セツナはちょっぴり吊り上がった猫のような瞳で、私の顔をじっと覗き込むと、私にしか聞こえないくらいの小さな声で、こう言った。 

「俺もだ」

 (………) 

 セツナは、恐る恐る私に右手を伸ばす。頭に手を置いてから、背に向かい、尻尾の付け根にかけて、なめらかな仕草で私を撫ぜる。それはまるで、何度も頭の中でシミュレーションしていたかのような、淀みない動きだった。 

 …ずるい。こんな風に撫でられてしまったら。 


「…ああ!」 

 驚いたような声を上げながら、キッチンにフェルトが現れる。酷く嬉しそうに、私たちを見て優しく微笑んで。 

「よかった、仲良しになれたのね」

  セツナが私を撫でる手はだんだんと手慣れてきて、フェルトのそれに似てきていた。耳の裏から首の辺りを、指先で柔く掻くようなその動きとか。 

「だといいんだが」 

 セツナが私を撫でながら小さく答える。私は気持ちよさにうっとりと目を細めて、セツナの手に顔を押し付けてごろごろと喉を鳴らしたのだった。           



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