「多層階思慕」:/ 現パロ / フェルトの誕生日記念小説 / 転生匂わせ

 雪で電車が遅れてるみたい。

 十分くらい遅れるかも。

 画面の上に灯る既読の文字を認めると、彼女はスマートフォンをコートのポケットに滑り込ませた。両手を合わせ、冷えた手と手をこすり合わせると、環状線のホームから騒がしい師走の大通りを見下ろした。冬の始めに心を賑やかせた並木道のイルミネーションはもはや見慣れた情景で、この凍えるような寒さの気晴らしにはちっともなりそうにない。それに一刻も早く目的の場所にたどり着きたかった。このターミナル駅から十五分ほど電車を乗り継いで、駅から歩いてほんの五分。そんなに広くもないけれど、公園に面した角部屋が居心地よい、快適な彼の部屋。

 りょうかい。

 彼女が再びスマートフォンを開いたのは、バイブレーションが彼からの返信を知らせたときだった。

 ちょうど八分遅れの電車が到着した頃合いで、寒さにしびれを切らした乗客たちが暖かな車内へとこぞって乗り込もうとする真っ最中。彼女もその後ろに続きながら、誰知れずひそかに微笑む。彼のメールの返信がたいてい素っ気ないのは知っている。だが言葉の変換すらされていないところを見ると、きっといまごろ忙しく夕食づくりの真っ最中なんだろう。おおかた買ったばかりのオーブンレンジを使った、目新しい料理を披露して自分を驚かせるつもりでいるんだろう、と。

 電車の中はよくよく暖房が効いていたけれど、それ以上に彼女の心を温める想像はそんなところだった。独り身の部屋には少しばかり不釣り合いな、あの豪勢なオープンレンジの前で、本当に真剣な顔つきで料理に取り組むあの横顔。

 きっとかわいいんだろうな。

 彼女はワインを飲みながら、キッチンに向かう彼の腰に手を回す。驚くほど引き締まったその硬い筋肉の感触を指先で楽しみながら、料理をする彼のうやうやしい手つきを見守っている。

 半刻も経った頃にはそんな幸せに身を浸していることを思うと、彼女は幸福で胸がいっぱいになった。騒々しい年末の行事に追われて、クリスマスはろくに電話もできなかった。でも今夜は違う。慌ただしいながらも仕事にはそれなりの区切りをつけてきた。あとは待合室で名前が呼ばれるのを待つのと同じように、来たるニューイヤーに臨むのだ。彼とふたり。二十五歳の誕生日で。

 彼の部屋に到着する頃には、都会に降る雪の粒はいよいよ大きくなっていた。彼女は薄く雪の積もったアスファルトの道を、半ば滑るように小走りに進んでいった。彼の部屋の前に立ち、チャイムを押そうとしたその瞬間、目の前の扉が開いて、愛おしい彼の姿が現れた。

 遅れてごめんなさい。

 いや。寒かっただろう。

 すごく。……どうして部屋の前にいるってわかったの?

 なんとなく。

 彼女を部屋に迎え入れながら、刹那はそのように答えた。彼女が今年のバースデーにプレゼントした青色のシャツを身にまとっている。それはフェルトがそれとなく心のどこかで、今夜刹那が着てくれればすてきと思っていた服だった。刹那・F・セイエイという若者はそのように、どこか不思議なところのある人だった。彼女の考えていることや、やろうとすることはたいてい見透かされていて、その都度驚くほどの律儀さで、心に寄り添うような愛情を見せるのだった。

 フェルトは少なくともそれを、ふたりの気性や心の思うところがぴったりとかみ合っているせいだと考えていた。彼が彼女をどうしたいか、彼女にいつもそれがはっきりと分かっているのと同じようなたぐいのことだと。

 彼女はコートを脱ぎ髪を下ろすと、キッチンで夕食の最後の仕上げにとりかかる彼のかたわらに寄り添った。

 これは?

 鴨肉のロースト。

 おいしそう。

 『C』のボタンを押せばすぐにできるんだ。

 キッチンに鎮座するオーブンの、誇らしげな黒光りを彼女は視界に入れた。ワインの勧めを受け、鼻に抜けるその香りを楽しみながら、彼の腰に手を回す。柔らかなシャツの向こう側、腹部の熱い皮膚の感触を知ると、彼はくすぐったいのか、わずかに身をよじる。彼女はワインを飲みながら、その様子を愉しんでいる。非難するかのように彼が彼女を見下ろすと、フェルトはいたずらっぽく微笑んだ。

 大胆だ。

 そう?

 誕生日だから?

 そう、誕生日だから。

 オーブンではすでに野菜がローストされ、あとはメインを待つばかりとなっていた。滞りなく下ごしらえをした鴨肉をオーブンに収めたあと、彼は待ちきれないと言わんばかりに彼女を抱きしめてキスをした。天にも昇るほどの甘く長いキスだった。彼がいつもよりも更に上機嫌なのが、彼女はたまらなく嬉しかった。彼女をかき抱く腕の力の強さや温度が、それを物語っていた。

 好き?

 大好き。

 彼女の髪に顔を埋めながら、彼は言った。

 どれくらいかな。

 もう二度と離れないと約束する。

 もう二度と?彼女は聞き返す。まるでかつてそういうことがあったかのような口ぶりだったので、彼女はおかしくて笑った。

 うん、離れないでね。

 信じてないな。

 信じてるわ。だって刹那がわたしのそばから離れたことなんてないでしょう?

 フェルトが明るくそう言えば、刹那はひどく怪訝そうな顔をした。もしかして、彼はそう口を開いた。

「覚えてないのか?」

 刹那はどこか拍子抜けしたような顔つきで彼女を見下ろしている。彼女こそ驚き、きょとんした顔でまた彼を見上げていた。彼女が彼と出会ったのはわずか一年前の出来事で、それから今までの間には離別も仲違いもありはしなかった。彼らはいつでも互いが互いを補い合い、きめ細やかな愛情を与え合うだけの関係だった。

 どういうこと?

 不安になった彼女が彼を見上げるが、彼はどこか心得たような表情で彼女の髪を撫でるだけだった。いいや、なんでもない。どうだっていい瑣末なことなんだ。彼が言う。オーブンが明るい音を鳴らして、夕食の完成を二人に告げた。

 美しく盛り付けられた野菜と鴨肉のローストを前に、二人は改めてワインを飲んだ。ゆったりと食事を楽しみながら、二人きりの甘い時間が過ぎていく。

 刹那は言う。また宇宙の話をしても? アルコールが入ると必ず彼がするお決まりの話題だったので、彼女は微笑みでそれに応える。彼はいつものように、彼が研究の対象にしている二十九個の球状星団、七個の散光星雲、二個の惑星状星雲、十四個の系外銀河についての話をした。そのどれもが果てしなく遠い時間をかけなければ行くことが叶わない遠い世界の話だったが、刹那が話すとそれはディナーテーブルの上にのった家庭用のミニプラネタリウムのように、親しげなものに感じられるのだった。特にある遠い銀河系について講義をたてるとき、彼の瞳はとりわけ輝いた。その銀河系が持つ可能性や示唆について語るときの彼の言舌は、まるでその星のひとつを実際に見てきたかのような、生き生きとした明るさを放っていた。

 彼女はときおり考える。彼女に恋をするよりもずっと前から、彼の心は宇宙という途方もない広がりと共にあるのだと。そして彼女はこうも思う。それは自分にとってとても重要なことだが、同時に本当にささいなことでもあるのだ、と。

 たとえ彼が自分の元を離れてしまうときが来ても、それは広大な宇宙のうねりに彼を受け渡すのと似たようなもので、その広大な世界の中には、同時に彼女自身も含まれていた。だから大丈夫なのよ。彼女は思う。どこにも行ってほしくはないけど、ねえ、いつだって心づもりができているのよと。

 だがこのことはしばらくは彼には言うまい。この小さな星での慎ましやかな人生では、ときおり宇宙の広大さに打ちひしがれるくらいが、ちょうどいい塩梅だろうと思うから。

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